何が変わったか
これまで鳥類の網膜は血管をほとんど持たないにもかかわらず、その代謝活性は脊椎動物中でも最も高い部類とされ、「未知の方法で酸素を取り込んでいるはず」というのが研究者間の長年の仮説だった。3 世紀にわたり 30 以上の機能仮説が立てられた網膜内の謎の構造「櫛膜 (pecten oculi)」が酸素供給を担っているとも目されてきた。
今回 Aarhus University の進化生理学者 Christian Damsgaard らがマイクロセンサーを使ってゼブラフィンチ・ハト・ニワトリの網膜内酸素濃度を直接測定したところ、血管を持たない内側網膜では酸素濃度がゼロであることが確認され、鳥の網膜は無酸素 (anoxic) 環境のまま機能していることが実証された。空間トランスクリプトミクスにより、内側網膜では嫌気性解糖系の遺伝子のみが活性化し、櫛膜では酸素ではなくブドウ糖を網膜に送り込み、乳酸を排出する遺伝子が高発現していることも示された。
社会にどんな影響があるか
「ヒトの脳は数十秒の無酸素で不可逆損傷を受ける」という生体上の常識が、進化的多様性で大きく書き換わる。脳卒中・心停止・周産期低酸素症など医学的に最も致死的な事象の多くが「低酸素による組織損傷」を共通項としており、生涯にわたり酸素なしで動作する組織が脊椎動物に存在することは、低酸素病態に対する治療法開発のヒントとなる。
副作用として、結果が脊椎動物全体にどこまで一般化できるかは慎重な解釈が必要となる。研究は非渡り性の数種に限定されており、Max Delbrück Center の Gary Lewin は「渡り性鳥類などへの拡張をすぐに想定するのは早計」と注意を促している。
ニュースの詳細
筆頭著者 Christian Damsgaard は、研究を 2019 年に「鳥の網膜は血管を持たない」という事実に出会ったところから開始した。チームは内側網膜の酸素濃度を直接測定して「ほぼ完全に酸素ゼロ」を観察、空間トランスクリプトミクスで遺伝子発現マップを作成、嫌気性解糖系の遺伝子が内側網膜で集中的に発現し、外側網膜 (血管あり) では好気呼吸の遺伝子が発現することを示した。櫛膜にはブドウ糖の輸送と乳酸の排出を担う遺伝子が活性化していた。内側網膜が必要とするブドウ糖量は鳥の脳組織の 2.5 倍に上る。比較対象として中国産イシガメとカイマンの網膜を測定したところ、いずれも酸素濃度は正常域で嫌気性解糖系の指標も検出されず、無酸素化はオオトカゲ・ワニ類との分岐後、現生鳥類に至る恐竜系統の進化途上で獲得されたものと推定される。論文は 2026 年 1 月号 Nature に掲載。
キーワード解説
嫌気性解糖系 (anaerobic glycolysis) とは、グルコース 1 分子をピルビン酸 2 分子に分解し、酸素を使わずに ATP を 2 分子取り出す代謝経路。好気呼吸では同じグルコースから 30 分子の ATP を取り出せるため、効率は 15 分の 1 程度。筋肉が酸素不足になったときや、がん細胞の主代謝経路としても知られる。
櫛膜 (pecten oculi) とは、鳥類の眼球内に突き出した櫛状の構造で、血管が密に走る。17 世紀から解剖学者がその機能を議論してきたが、今回の研究で「網膜への酸素ではなくブドウ糖の供給と乳酸の排出を担う」役割が初めて示された。
空間トランスクリプトミクス (spatial transcriptomics) とは、組織切片上の各位置で発現している RNA を網羅的に検出する技術。細胞型と機能を「どこで何が起きているか」というかたちで可視化でき、本研究では内側網膜と外側網膜の代謝経路の違いを明示するのに用いられた。
裸出デバネズミ (naked mole rat) とは、東アフリカに生息する地中生哺乳類。18 分間の完全無酸素状態に耐えるという脊椎動物中最高クラスの耐性を持ち、その機構として果糖をエネルギー源とした嫌気性解糖系が知られる。本研究の対照点として鳥類との比較で引用された。